NA.home通信 230号 |
16.jun.2005 |
復刻版カブトビールはお飲みになったであろうか。先日の赤レンガ建物一般公開に合わせ、半田赤煉瓦倶楽部が知多ビールと提携し、製造販売したものである。 当時は東京、横浜、北海道などでビールの生産が始まっていた。この知多地域でもビールを造ろうとしていたようだが上手くいかない。そこで明治20年、4代目中埜又左衛門(ミツカンの社長)は甥の盛田善平を東京に派遣して調査研究をさせる。 善平は横浜、神戸も回りビール製造の免許を持つ中国人を連れてきた。作業場を新築し、機械は工夫しながら翌年冬には醸造に成功、明治22年5月、丸三ビールとして3000本初出荷した。 明治28年京都で開かれた勧業博覧会でアサヒビールと対抗して、芸者に赤前掛け、赤タスキをつけさせ、ビアホールを出店したところ、大成功し売上げは急速に伸びた。その成功を期に会社を設立させ、新工場の建設に取りかかった。 しかしすでにその時点で4代目又左衛門は亡くなっており、善平は明治32年、敷島パンの敷島屋製粉場を開業し成功をおさめ、徐々に創業者たちの熱意が冷めていく。 その後、会社を売却、昭和8年には大日本麦酒に吸収合併、昭和16年には半田工場の機械は移され、製造を停止した。 戦後財閥解体で大日本麦酒はサッポロとアサヒに分かれるがカブトビールが復活することはなかった。 復刻ビールはレンガ工場ができる前のビールに近いのではないかと思う。レンガ工場ではドイツ型のピリスナーであろうから。でもこれで良いと思う。 今回の一般公開では名古屋日独協会の協力でドイツコーナーができ、敷島パン製のドイツ風パンを売っていた。 |