地震と空襲
成田完二の 勝手にコラム   耐震 009
 昭和19年の12月7日午後1時36分、東海地方はM7.9の大地震に襲われた。昭和東南海地震である。
 その昔、私の街には多くの煉瓦造りの工場があった。紡績工場や食品加工工場、飛行機工場たちだ。
 戦時色が強くなるとそれらは軍需工場となり、学徒動員で女学校や国民学校の生徒までそこで働いていた。風船爆弾などを作っていたらしい。

 当時女学生だった方に話を聞いた。
 彼女は学校で地震に遭った。大きく揺れたが校舎は無事、すぐに級友達が動員されている工場に向かい走り出した。
 学校のある高台から低くなるにつれ被害が酷くなり、煉瓦造りの工場は将棋倒しのようになっていた。
 翌年1月13日未明には三河地震、残った工場も7月の空襲で2000発の250キロ爆弾で粉々にされた。

 私が子どもの頃にはまだ煉瓦工場の残骸が残っていた。戦前栄華を極めたわが街の歴史を語る人の口は重く、遺産も壊滅。文化の伝承も途絶えた。
 建築は本来、人びとの暮らしや産業の発展を支える器のはず。それが人の命を奪ったり、攻撃の的になるなどは、たいへん悲しいことだ。
 建築に携わる者として、恒久平和を祈ると共に、人びとの笑顔をたくさん入れられる器を後世に残していきたいと、気持ちを新たにする12月7日である。
全国商工新聞 2022.1
T O P   勝手にコラムLIST